1996|11|21
昨日、
会社の社長が
「本当は読ませたくなかったんだけどな」
という言葉と共に1冊の本をおれに貸してくれた。
ちょうどタイムカードを押して帰る寸前のことだった。
その日は国立でグランパスが勝った日だ。
(それについてはFavorite Sportsを見てくれ)
「どういう意味ですか?」と問うたが
「読めばわかる」としか言われなかった。
雨のために昨日は持ち帰らず(バイクだからさすがにね)、今日読んだ。
おれにしては不思議なことだが間髪入れずに一気に読んだ。
その本の名は、
唐沢寿明の「ふたり」
唐沢と聞いて連想するのは、「江戸っ子、ギャグ連発する明るい奴」程度しかなかった。
好きでも嫌いでもなかった。
「読ませたくなかった」真意はわからない。
推測するならば「お前にとって突破口になるか、もしくはそのヒントになるかを示しているので読ませたくなかった反面教師」ということなのか。
または、引っ越しをやめると言い出すのを心配してくれたのか。
いずれにせよ、おれはこの本のおかげで2度目の覚醒をちょうだいした。
1度目についてはまたの機会に。
正確には3度目かな。
1度目は俗に言う「自我のめざめ」ってやつで。
唐沢潔(唐沢寿明の本名)とおれはすごく似ている。
例えばこんなエピソードがある。
おれの通うボーカルスクールでの話だ。
今はもうやってないが、数年前入って1年経過したくらいかな、面接みたいなのがあって、偉い人(当時はたまに顔を見るというだけで何をやっているのか知る由もなかった、でも偉い人には違いなかった)と1対1で話をした。「久保くんも最近うまくなったね。カラオケで友達とかに言われるでしょう」
「・・・」
おいおい、あんたおれの歌聞いたことあんのかよ。
口からでかかったのを必死で止めた。
10代のおれならそこで学校をやめるか、とにかく行動にでたのは間違いない。
本当に辞めようかとも事実考えた。
まぁその後もずっと相手の目を怒りで満たされた目で一瞬たりとも離さず見続けたのはまだまだ子供な(だった)せいだろう。
また、担当の先生には、学校で撮ってもらったオーディション用の写真が「きつい顔」(こわい顔?)だから受けがよくない。
などと言われ、これがおれの素なんだよと心で思う。
この素を誰か(業界関係者)が気に入ってくれなくて虚の部分を見せて気に入られてもしょうがないだろ、と考えるわけだ。
少し笑っている写真も「不敵な笑み」と言おうかファインダーの向こうを見下しているような意味ありげなスマイルなのだ。
そしてそれは確かにかなり意識的だった。
その「意識的」な行為を「なんで分からんのだ」とも思った。
だが、社会を拒絶するようなその視線(本心がそうでないにしても同じ)はやはり音楽に限らず、どの社会からも拒絶されるのだ。
たしかに素の顔も「きつい顔」なのかもしれない。
実際、スタンドでバイトしてた時も族あがりだと結構勘違いされた。
でも長くつき合った人はおれが結構いけてる(おかしい、おもしろいっていう意味。ギャグとかじゃないが)存在だと認めてくれるだろう。
だろう?
別に狙ってるわけじゃない。
客観的にそう思うが、自分で語ったんではいまいち信憑性がないな。
ここまで語っておれを「暴力的で反抗的な単なるワル」と勘違いされると困るので自分で自分を助けてみましたが、さっさと話を戻します。
仕事が回ってこない時に、事務所の人に「あんた才能あるのに、おかしいねえ」と唐沢潔が言われたように、オーディションの写真1つで曲をまともに聞いてもらえないこともあり得るのだ。
それが現実だ。
もしそれが受け入れられるならば圧倒的存在感があった場合くらいだろう。
たかが1枚の写真でおれが表現すべきことは「受け入れられる要素」なのだ。
もちろん媚びではない。
おれだってなんだかんだ言ったって楽しくやりたいわけだし。
唐沢潔がそうであったように、おれも鏡の前で笑うとぎこちないのだ。
そりゃあ日常生活ではゲラゲラバカ笑いするけどね。
最近分かりかけていたが、この本で確固たるものとなった。
彼の性格全般、独特なA型気質、学生生活のドロップアウト、そんなカッコいいものじゃないが一匹狼的部分などなど、生まれた土地と家庭環境を除けばどれもこれもがおれに当てはまる。
おれが自叙伝を出してもかなり近いものになるだろうね。
エンディング付近は、まだシナリオが出来ていないが。
そして彼が「トレンディ」(いい意味でね)になるまで「ひとり」だったように、(友達がいないとか、彼女がいないとかそういう意味ではない)おれもまた「ひとり」なのだ。
どうしてこうも符号するのか。
彼が「おもしろくもおかしくもない(インパクトに欠ける)顔」と言われ、それが一種のコンプレックスになるのも、やはり似ている。
彼は乗り越えるんだけどね。
そしておれは、久保和広じゃない自分を早く手に入れなければならない。
そしてゆくゆくはその「ふたり」を理解して愛してくれる女性に出会わねばならない。
それはそう遠い話ではないだろう。
このまま「ひとり」を続けると、おそらくつぶれるだろう。
しかしもう1人のおれはさっき出てきた1度目の覚醒で生まれはした。
あとはどう成長させるかだけだ。
まだ久保和広の部分が強すぎる。
もちろんいい部分は残すよ。
誤解しないように。
「ふたり」が妥協せずに歩み寄っていった先が一応の到達点なのだ。
もっともっと俯瞰して世界を見る必要がある。
おれはやはりクボカズヒロにこだわりすぎていたようだ。
ちょっと前まで「敵がいないと生きていけない」とか考えていたしね。
そんなのストレスとかマイナス要素しか生まないのに。
ここまで書いて「ふたり」を読んでいない人は「何?」「別の人格になりたいの?」なんて思うんだろうね。
まぁ仕方ないか。
最後に、
このエッセイは「唐沢寿明」でなく「唐沢 潔」名義で出版すべきだったんじゃないのか?
業界の意図が感じられるね。
唐沢はそれを望んだんじゃないの?
でも寿明が「まあまあ」って潔を黙らせたんだろうね。
それでこそ役者だ。
「ふたり」とは、唐沢と山口智子であり(別に間違いではないが)、その甘ーい甘ーいラブロマンスを描いていた人は「えっ」って感じるだろうね。
読む前はおれもそう思ってたし。
衝撃とか感動とか共感ではない何かしら静かで熱いものを感じました。
一言でいうなら
「唐沢、受け取ったよ」
という感じ。 分かるかな?
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